昭和50年01月01日 元旦祭



 「一年の計は元旦に在り」 と言われるので御座いますから、私は今年は是で行こう、この信心でというのを一つ、私のそれこそつたない話の中から、何か一つそれぞれの信心の程度程度に応じて、私も長くは申しません積りですけれども、どこからかです、本気で是だということを頂いて頂きたい、そういう姿勢をもって私もお話しさせて頂く、また皆きんも聞いて頂きたいと思います。
 神様にせかれてせかれて、急かされておるので御座いますから、どこを神様がこの様にせいておられるのだらう、まあしみじみ思う訳で御座います。昨日までは私昨夜の除夜祭、お礼お詫びのお祭り、また今日のお祭りの前夜祭ともなる様な内容の性格のお祭りで御座いますが、そう思うておったんで御座いますけれども、今日になってその思いが変わって来た。そこのところを聞いて頂きたい。
 皆さん御覧の通り、入り口に街頭の大きな時計が、昼はあまり気が付きませんが、夜ともなると、あれがピカッとこう点滅しながら、一分毎に刻んで行きます。通る人ごとに大変便利をするというて頂いておる、と言う事で御座いますが。神様が言わば時計の様に正確な、いわゆる実意丁寧神信心をせろよと、言うて御座ると思うておった。昨夜も私は皆さんに聞いて頂いたんですけれども、それではのうても、合楽にはお神酒の蔵建てんならんという程に、お酒が沢山集る所で有名なんです。
 それが最近はもう毎日とにかく、もうそうでえすね四、五日しよるともう二百本位ある。とにかくここへ出とるだけでも二百本あまりですけれども、まぁだ沢山お供え出来ない様な状態です。どんなに考えてもですね、ただ事じゃない。是は神様が愈々有り難き勿体なき畏れ多き。合楽の金光様は愈々お神酒が好きだ、お神酒と言う事は取りも直さず、有り難き恐れ多き、勿体なきの三木じゃと仰せられる。
 ですからそういう有り難い信心になれよと、又は正確無比といえば天地日月の心でありましょうが、それこそ愈々天地日月の心を心として、正確な信心をして行けよと神様がいうて御座るとまでは思うておった。所が今日になってねそうじゃない神様がね神様がこういう言うならば、有り難いおかげを沢山下さろうとしておる、と言う事で御座います例えていうとここへは時計のお供えがある度んびに信心が変わって行くです。
 しかも今度は外にしかも信心のある者も無い者も一応便利する様な、村内の方達も朝はよう行きよんなさる方達は、早速お礼が来とります。おかげで良いというて。という様にです、信心があっても無かっても、まあいうなら分かられる、認めてもら言えれる信心。私は昨夜のお祭りのあとにお話ししたことでしたけれども、合楽示現活動始まって半年余りでしょうか、もう本当に目を見張る様なおかげが現われております。いわゆる奇蹟の連続で御座います。
 けれども又一たびもう合楽に三年五年、又は十年二十年と信心を続けておられる方達の中にです、改めて思わせらるる事はです。貧、争、病のない生活に皆さんが入っておられるという事実で御座います。今度の暮れは、取分け金銭の、もうどうもこうも出来ない、もうとにかくどうにも出来ない、本当に文字通りどうにもいわゆる手を上げたと、いう様な方達がです、もうそれこそ日に何回となく電話が掛かって来る。
 日に何回となくお参りして見える、どうもしようがないんです。それがもう見事に三十一日までにね、皆んなお電話でお礼のお届けまたは、お礼の参拝がある程しに、ただ聞いて、本なこっちゃあるじゃろうかという様なおかげを受けとります。ですからねここで合楽示現活動が、こうに催しに催されておる、その中に御神線を頂いとる方達は、まだ貧争、病が絶えないのです。今の合楽の御信者層の中にはっきりしておる事はです、もう貧、争、病と言う事もう貧乏がない。
 争いがない病気がないと言う、そういう生活に入っておられる今までの御信者さんと、今、貧争病に愈々、明日をも解らん命を神様に託しながら、お縋りしておる方やら、もうどうにも出来ん。いうならば倒産寸前にあるお店や事業なさっておられる方やら、もうそれこそ人間関係で、もうどうにも出来ない、言うならば山場に来ておるといった様な方達がです。その半分はあると言う事で御座います。
 例えば今日の元旦祭と言う事も知られない、只お願いには来ておるけれども、只お縋りしお願いしておると言った様な方達の、この二つの面が合楽の信者の層の中にある訳です。そういう方達がです。又はなら今迄おかげを受けておる方達でも、そういうまぁだ自覚、おかげを受けておるという自覚に立っていない。本当に合楽に御神縁を頂いて何年になるが、おかげを頂いたものじゃあるなあ、あれを思い是を思いお礼を申し上げる事ばっかりなのにも係らず。
 まあだ何とはなしにおかげの頂き足らぁんごたる思いをしておる事はあいすまん。是は本当に今頂いておる事のおかげを、本気で神様にお礼を申し上げる有難い心を、愈々募らせ育てて行かなければならないと言う事をです、皆さんが感じて下さらなければいけない。何とはなしにまぁお金もヤアヤア言わんで良かごとなった、おかげで円満に行く様になった、おかげでもう第一私の方には薬箱が無くなった、という様なそれだけに、いうなら腰掛けておったんではあいすまんのです。
 そこでですそういう方達がです、例えば今年はね誰が見ても本当におかげだなあ、と誰れが聞いても、成程合楽に御神縁を頂いとる方達のおかげは目を見張る様なおかげを頂きなさるな、という様なおかげを下さろうというお年柄と言う事を、私は今朝方から気付かして頂いた。例えば神様がねそれこそ物言わんばかりに、あの外側の時計をもって。いわゆる時計の様に間違いのない信心をせぇよ。愈々有り難い勿体無きの言わば沢山のお神酒によってです、有り難い信心生活に入れよと、いうて御座ると思うておった。
 所がそうではないです皆さん、今年という今年はこういう有り難いおかげを、誰れが見ても聞いても、それこそ目を見張る様なおかげにね。して下さろうという、おかげを下さろうというお年柄だ、ということで御座います。ですからね皆さん私がお話しをする中から、一言でもならそれこそ一年の計は元旦にありと、元旦祭にお引き寄せを頂いて、今年は是で愈々行こうと一心発起されるなら、そういうおかげの頂けれる年柄。
 是はねえどんなに私どもが物凄い信心をさせて貰って、どんな例えばおかげ頂こうと思うて一生懸命頑張りましてもね、神様が下さろうという意志が動か無かったら、おかげにならんのです。そこでなら今度合楽の場合はね、そのどうにも出来ないというのじゃなくて、神様がおかげを下さろうとなさっておられる年柄だと。なぜかというと。私は最近の社会情勢の中から、いろいろ思わせて頂いてもです。
 本当に神様が「寒天危地」というて下さるが寒い天、いわゆる地上に危機が迫っておると、それをいよいよ「歓天喜地」にして行かねばならない。歓天というのは歓び天の歓び、いわゆる地の喜び、そういうね世界人類の上にです、神の栄光が受けられるおかげの頂けれる運動、活動が合楽示現活動なんです。ですから世界の隅々に迄、この運動が展開されて行かねばならん。そういう願いを神様が合楽のに現しておられる。
 そこで合楽に御神縁を頂いた方達がです、先ずは成程と自分だけが、ほんに先生にいわれて見ると、ほんに貧、争、病のないおかげを頂いとるたいそればってん、まあだあそこは信心し御座れんばって、まあーだ億万の金を持って御座る、あそこは信心し御座らんばってんがお城のごたるお家に住んで御座る決してお金があるから、お城の様な家に住んで御座るから、人間が助かるということとは違うのです。
 今朝の御理解の中にも、とにかく人問が助かる事なのです。そこで人間はです私共が力を受け、徳を受けて参りますとです、人を助ける事が出来ると言う事が有り難いと心得て信心せよと、人を助ける事が有り難いと心得て信心をするのです。もう自分だけ助かったらよかというのととにかく人が助かる分には先ず私自身が助からなければならんというのとは違うんです。人が助からなければならないから本気で。合楽示現活動の出来るおかげを頂く為には、私がおかげの見本というものをです。ひっ下げての示現活動でなければならない。
 例えてまぁ申しますとね、金光教の教団で現在の、今日のお祝詞の中にも申しとります様に、御取次成就信心生活運動が、打ち建てられましてもうやんがて、三十年になります。ところが果してその御取次成就が信心生活運動がはたして展開されておるかどうか、出来ておるかどうか、三十年前の金光教と今日の金光教はひとつも変り映えがしていないという事実なのです。ここにです私共がどんなに頭を絞っておかげを頂こうと思うても、神様はどっこいとおかげを下さらないと言う事が解るでしょうが。
 所が神様がおかげを下さろうという、合楽示現活動はそうじゃない、この活動にお互いが参画さして貰うたらです、神仏が先に立って不思議な働きを示し現す、と仰るのですから、それをいわば合楽では現しとるその事実をね。私共はもっともっと沢山の人にも、是を聞き知って頂かねばならない。それが私は愈々内容には沢山なお神酒、有り難き勿体無き、畏れ多きが溢れる様に、外にはあの街頭にあります時計の様に。
 あの時計の重さは何と六十キロある、三日間かかったんですあれをクレーン車が来てから上に上げました、そして三日間掛りであれがようやく上がったんです。あれをお供えなさる方が、大阪の方から下って来る時に御本部に、丁度前を通りますから寄らせて頂いた。合楽の教会にこういう時計、是はまだ日本にも沢山はありません九州は合楽の教会が初めて、お供えさして頂こうと思います。というて金光様にお届けをなさったら、「大変結構です」と言うてお喜びになったと言う事。
 そういう例えばその事がです、ただほう本当合楽はとにかく珍らしい物が沢山上る、というだけじゃなくてね、そのお供えの中にです、御神意御神虜を悟らして貰う。昨日まではね、神様がこういう信心をせろやと、愈々有り難き勿体なきを愈々頂いて行けよと、ね。正確な信心をしてくれよと、神様が言うて御座ると思うとったですがそうじゃないんです。神様がねそういうおかげを下さろうというお年柄であると言う事です。
 何故かというとそれこそ危機が迫っておるからです、地球上にね。この例えば信心のおかげによってです例えば二十五年後に地球が破滅する、人類が全滅すると言われる様なです、そういう中にあってもです生き残れる人々としての人が一人でも多く地球上に残る、という様な願いというものが神様のお心の底にある訳です。だから信心はでけておらんのだけれども、合楽教会ちゃまだ未熟だけれども、けれども矢張り合楽に白羽の矢を立てて下さったと言う所にです。
 皆さんが思いをして愈々ね神様が下さろうとするのですから、頂こうという姿勢を作らなければいけん、と言う事で御座います。久留米の初代石橋松次郎先生が、矢張り今日の様に元旦祭をお仕えになって、そして裏に下って初めてお屠蘇を頂かれる、お膳部に付かれてお神酒を注いで貰うて、それをこう口の前に運ぼうとされた時にです、幽冥からとお言葉を仰とられますね、いわゆるどこからか解らんけれどもです、天の一角から声がした。「石橋松次郎に八百俵の徳を授ける」というお声であった。
 もうびっくりされたんですね、八百俵の徳を授ける。だからね神様がね、八百俵の徳を授けて下さるならばです、本気で頂こうとその元旦祭を境にです、今日私が皆さんに聞いて頂こうという、そこのところのいわば発心をなさったんです。それは大変な御比礼の輝いた教会で御座いますけれども、その当時何やら彼やらという物入りがありまして、高利の八千円という借金があったんです。
今の金額にしたらどういうことになるでしょうかね、やっぱリー億近いお金じゃないでしょうか。細々とした教会のお初穂の中から、元利ともそれを払わなければならない。毎年毎年、利払いばぁっかりで過ごさして頂いたが、今年もまた利払いだけで明け暮れするかな、と心の中にかすかに石橋先生が思われたとたんに、そういう「石橋松次郎に八百俵の徳を授ける」と仰った。
 丁度その当時のお米が一俵十円だったそうです。だからそのお知らせを頂かれて、もう本気で四神様のお徳を九州中の、出社関係に一生懸命に説いて回られた、ということで御座います。そして何年掛りで唯利払いだけしか出来なかっその八千円という元金が、一年も経たない内に全部、元利共に払いが出来られたというお話しが残っとります。私が皆さんに聞いて頂こうと思うのは、ここの所ね。
 神様がなぜ合楽全休に徳を下さろうとしておるか、合楽のご信者になぜ神様がおかげを下さろうとしておるか、そこには神様の底にもっと深いものがある。皆さんも愈々いうならば合楽示現活動に参画させて貰う、という願いを立てると同時にです為にはね矢張り、私が各おかげを頂いた自分だけは真善美の世界に住んで、貧争病のない世界に住んでおると思うておっても、それを素人が見て第三者が見て、成程と言うなら目を見張る様なおかげを頂かなければです、人がやっぱり居ちゃ来んです。
 だから今年はそういうおかげを下さろうというお年だと言う事をです。私共が一つ解らせて頂いて、そんなら一つ本気で頂こうという気になりなさらなければならんと言う事です。そこでですならどういう信心を、まあさせて頂いたら今朝から頂きます。人間が人を助けれると言う事は有り難い事だと、又有り難いと心得て信心をせよと仰る。人が人を助けられると言う事が有り難いと心得。
 それはね金のない人に金を渡すとか、ね。困った人にそのうそれを親切に聞いてやったり、面倒見て上げたりすると、それは信心でいう助かりではないですね。その証拠にはそれこそ沢山お金を持っておっても、どんな立派なお家に住んでおっても、その中に住んでおる人が助かっていないと言う事実が御座いますでしょうが。どんなに例えばそれこそ何一つ不自由のない生活をさせて頂いとっても、段々年を取って行くに従って淋しうして淋しうしてこたえん。
 そこで稽古事でもと思うてから、年を取ってさあ色々な稽古もしてみる。お茶の稽古もするお花の稽古もして見た、成程花友達茶友達が来てから、ガヤガヤ言いよる時は、何とはなしに有り難いけれども。もう帰ってしもうたらもう淋しうてこたえん。その事を聞いたある方がです、本当に信心を頂いとる事の有難さを目の当たり、それを見たり聞いたりして、思うたというお届けがあった事がありますがもう一事が万事にそうです。世の中で、助かると言う事はね自分自身の心が、賑かにならなければいかんのです。
 もういやが上にも有り難ぁとうならにゃいけんのです、是はね信心によらなければ頂けんのです。是は考えて見れば、是はおかげだなと思うてもです、矢張り、不平不足が出ろならば、それは矢張り助かってない証拠です。ですから私共が愈々助からして頂く為に。私は今朝から御神前であのうゴルフをね、私はあれは知りませんけど、ありゃこう曲がったごとある棒、あれは何というのでしょうか、ありゃこうすっとがあるでしょう、あれはこげんですかね、だけんこげんでしょ構えると。
 それが反対にこげな風にして構えとるとこば頂きましたよ。ゴルフと言やぁまぁ楽しい面白いもんだそうです、同時に楽しい面白いだけじゃなくて、健康にも大変良いと言う事です。いうならば一挙両得なんです。信心もそうです信心をさせて頂くと言う事はおかげを受けると言う事だけじゃありません。自分自身が助かるのです。しかも言うならばあの世にも持って行こうか、この世にも残しておけると言われる程しのものですを頂いて行くという稽古なのですから、そんならそういう稽古をです。
 私共が姿勢も作らずして頂ける筈は絶対ないです、いくら稽古したって。例えばこげんせなんとば、反対にこげんしとったちゃ、それはよかゴルフは出来んじゃろうと思います、姿勢からやっぱりこう足の踏ん張りから方からこう、稽古せんならん。そして繰り返し繰り返し稽古をさせて頂いて、はじめてゴルフの面白さ楽しさしかも健康もゴルフをする様になってめきめき健康になった、という様なね、おかげになって来る訳でしょう。私は今日そこを頂いてです。
 すぐ信心の結局焦点というか、信心の言うなら構えというものがです。私は先ずは大事だと思うんです。それは牛馬の事に到るまで実意をもって願えと仰せられますから、願わなきゃなりません。今の合楽の働き言うならばもうそれこそ、人間関係であろうと、病気であろうと。様々な難儀という、ありとあらゆる難儀な問題がです、もうそれこそ医者の見放した病人が助かる。もうどうにも出来よう筈はないというおかげがです、頂けておるんですから。
 だからそういうおかげも頂き頂きです。私共が本当の信心を目指さなければならないと言う事です。そこに信心が有り難うなり楽しゅうなる。私は皆さんに本当に有り難い楽しい信心をして頂きたいと。はぁこりゃあ何時まで朝参りせんなんじゃろうかと、という様な事ではね信心が楽しゅう重荷に成って行く。
 成程眠くもある寒くもある、けれどもねお参りをしてあの御祈念のひと時、お話しを頂く時のあの有り難さというものはです、もう信心の稽古を本気でしようと、精進しとる者でなければ分からない味わい楽しみがあるのです。今朝私は朝お夢を頂いた。それがここの敬親会という、六十五才からの老人の方達の会が毎月御座います二十九日に。その敬親会の方達にお話しをしておる話、それは素晴らしい、素晴らしいお話しですけれども、その内容素晴らしいというだけでコロッと忘れてしもうた。
 私もそれを頂きながら素晴らしいなあと言う事でした。唯私が覚えとる事はねこんな大きな筆で字の稽古を一生懸命なさりながら、私の話を聞いて下さる。そしてその講題がこういう講題です「如何に死すか」という講題。元旦早々縁起でもないと思われるか知れませんけど、是はねもう生と死は裏表です。幾ら嫌と言ったってこりゃもう付いて回っとる事です。ですからね、それが縁起でもないじゃない、有り難いものとして頂けれる信心が必要なのです。
 それは私は如何に生きるかということだと思うんです。如何に死すかと言う事は如何に、それはもう敬親会の方達が、さぁ若い方達からまあ年の前から言うならね、やっぱり早く亡くなんなさらん訳です。だから敬親会のお年寄りの方達に対する御理解じゃなくて、敬親会とは親を敬う会と書いてあります。から親を敬う会と言う事は天地の親神様を尊び頂く、私は会というふうに頂きますと、なら合楽の信奉者全部にと言う事になる訳です。確かに二三十人しかおられんのに。
 話を聞いて下さっとるのが、私の声をえらい大きい声に拡声してですね、そしてお話を聞いて頂いておるというので御座います。そしてその講題は「如何に死すか」と言う事。 だからその事に本当に取り組んで、一生懸命信心も手習いも同じ事、小さい筆ではない、大きないうならば筆を持つと言う事は、多くの墨汁が要る訳です。磨り溜めた物がなからねば、大きな字は書かれんのです。ですから苦労といわずに修行だというふうに頂いて、しっかり苦労しとるなら。
 是を本当に修行と思うて私は磨り溜めなければ、苦労ではいけない。今朝の五時二十分でしたが、私はとうとう付けてってしまいましたけれども、教主様の放送がラジオで、十五分間程あっております。それで皆様のて元にあれだけは配ったんですけれども、その内容の事はですね、それは木の切株に腰を降ろしても、立つ時には礼をいう心持ちになれよ、と言う事を芯にしてお話しになっとられます。
 物を大切にすると言う事です、一切の事柄を大切にすると言う事なんです。是はね一つ本気でなさって見なければいけんのです、是はね例えば一すくいの水でも、一粒の言うなら麦でも米でも。それを押し頂いてお粗未にしない心が生まれて参りますとね、心が嬉しう有り難うなって来るのです。是は不思議です是はね色々体験して行かねば解らない事です。ただね信心が無くてとにかくそういう人がありますね、はぁりゃもう始末倹約をして。そしてそれを貯め上げて行く為に始末倹約をする。
 それでは不思議に喜びは伴ないません。けどその人達は儲け出すとは儲け出すね。、始末倹約するから。けど儲け出したのがおかげではないです。不思議にね矢張り、神様の事が分かり、一切が神様の御物であり御事柄であるということがだんだん解って来て、そして一粒の米でも押し頂く心になって参りますと、不思議にそこから有り難い物が湧いて来るです。それは神様が矢張りお喜び下さるからです。
 もうそれを本気で実行する以外にゃないです、どんな些細な事でも疎かにしない、それを御事柄として、受けて受けて受け抜かして頂く信心の姿勢を作りますとね、そこから有り難いものが生まれて参ります、その有り難いという心をね、いよいよ大きくして行く事が信心なのです。
 それこそ木の切り株に腰を降ろしても立つ時には礼を言う心持ちが、おのずと出来て来るのです。例えば不平不足を思う時、私共の心の中に喜びが欠げておると悟らなければいけません。いらいらがある時にはです、腹が立つ時にはです、愈々もって有り難い物がなくなっておると思わねばいけませんです。心が有り難い時には、不平も不足もありません。いらいらも勿論ありません。
 そして人が助かる事の祈りが、本当に出来るんです。ですから私はやっぱりそう云う、小さいところからおかげを頂かせて貰わねばならない。金光様が今年は愈々物を人を大切にさせて頂こうお粗未にするまいと言う事を、ラジオでお話しになっとられます。私はそう言う所からでもです、一つ信心所謂有り難い物に触れて行く所のおかげ、しかも今年は、ただ今聞いて頂きました様にです。
 神様の方が乗り出して御座るという感じ。こういうおかげを下さろう、こういう徳も下さろうという、私共がどんなにお徳を受け様と思うても、どんなにおかげを受け様と思うても、どんなにジクバタして信心さして頂いても、是は例えて言うならば、御取次成就信心生活運動があの様にしてやかましく教団で叫ばらておりますけれども、三十年間叫びっぱなしで叫んでおるというに過ぎないのです。
 だからこの御取次成就信心生活運動の内容に、合楽示現活動に参画すると言う事が入った時に、神様が下さろうとする働き、神様がこの運動に参画するごとになったらです、神様が先に立って、不思議な働きを示し現して下さろうとする、その働きに預からせて頂かんならんのです。今年は合楽の信奉者の皆さんがそういう働きに、預からせて頂こうと。一心に発起しなければならんのです。
 それをなら久留米の。初代石橋先生のお話を例話として聞いて頂きましね。だから本気で神様が下さろうという、こうなれじゃないです有り難くなれよ、時計のごたる正確な信心をせろよ、と言われるのじゃないです。そういう正確なおかげが受けられるお年柄、そういう有り難いおかげが受けられるお年柄、もう神様の方がこうやってね、差出しておられる様な感じです、だからこちらも受ける姿勢をね、示さして貰わねばいけない。
 それをこういうふう風に持たんならんのを、こういうふうに持ったんではいけませんでしょう。だからここん所のいわば修正というか。正して行くと言う事を日々の御理解によって愈々密なる物にして、おかげの受けられる姿勢を先ずは、作らなければいけない。
    どうぞ。
 元旦祭の私の拙いお話しの中から、今年は愈々神様が下さろうというおかげを頂こうという気にまずはなって頂かねばならないと言う事でございます。そしてそれを本当に行の上に楽しゅう、有り難う現せれる信心を愈々身につけて行きたいと思います。有り難うございました。